天草といえば…
天草四郎!ですかね
道の駅「上天草さんぱーる」のお向かいにある展示資料館です
天草におけるキリスト教布教は1566年に修道士アルメイダがひろめ、これをきっかけにキリスト教や南蛮文化が広まっていきました
入信したキリシタン大名も増えてきましたが、カトリック教徒と日本の旧来の宗教の信者達との間では憎悪と対立が深まっていきます
豊臣秀吉のバテレン追放令や江戸幕府による禁教令は、キリシタンを強く弾圧する形になりました
そんな中、島原と天草では凶作に見舞われ、かつ領主による年貢の取り立てやキリシタン弾圧はとても厳しく、島民の不満は高まる一方
ついに不満が爆発した島民たちは、キリスト教宗教者、そして首領であった天草四郎が中心となり、キリシタンたちの反乱「島原・天草一揆」がおこりました
一揆は富岡城を攻撃したのち、天草・島原に住む一揆勢総勢約37,000人が原城に攻め、幕府軍との激しい戦いが繰り広げられ、天草四郎をはじめとしたキリシタンは悲惨な最後を迎えることとなりました
前置きが長くなりましたが、ココ「天草四郎ミュージアム」では「島原・天草一揆」の歴史的背景および南蛮文化の影響を受けた当時の模様を資料と映像によりわかりやすく紹介し、 「天草四郎」の真の姿と民衆の熱き思いを今に伝える資料館
残念ながら館内は撮影禁止
だけど印象的だったのは2階の「瞑想空間」で写っていた言葉
常に歴史は勝者の口から語られる
…たしかに( ̄▽ ̄;)
続きまして、大江教会のふもとにある「天草ロザリオ館」
1587年の豊臣秀吉のバテレン追放令に始まり、江戸幕府によるキリシタン禁教令が発布され1873年に禁教令が解かれるまでの間、厳しい弾圧に耐え忍びながらもおよそ300年間、信者たちは隠れキリシタンとして信仰の火を守り続けました
こちらでは隠れキリシタンの説明を映像を交えながら、そしてそれに関わる資料を揃えています
そして、こちらも館内は撮影禁止
キリシタン取り調べとして用いられた「踏み絵」、葬儀の時に、隣の部屋でオラショ(祈り)を唱えながらお経を閉じ込めたという「経消しの壺」は一見の価値ありです
「天草コレジヨ館」、崎津集落から車で10分くらいだったかな?
宣教師を育てる学校がこの辺りにあったそうな
ローマへ渡った天正遣欧少年使節団
キリシタン大名とイエズス会の命により派遣された四人の少年たちはスペイン、ポルトガル国王やローマ法王に謁見
彼らによってこの地に伝わった南蛮文化や歴史、そして持ち帰ってきた資料などなどが展示されています
この機械を使って本を作成し、教科書として使っていたそうな
ちなみにこの印刷機、まだまだ現役として使えるそうで、ドイツから技術者が来て、この印刷機を使うっていうイベントが後日開催予定だそうな
バチカンの図書館の壁画の複製
ローマ法王に謁見している天正遣欧少年使節団の様子が描かれています
竹パイプオルガン
天正遣欧少年使節団が持ち帰ってきたものの複製ですが、他にもいろいろ楽器がありました
とてもキレイな音色してました
最後は天草の中心地にある「天草キリシタン館」
天草のキリシタン史、一揆で使われた軍旗や武器などなどが展示されています
閉館20分前だったので早足での見学
どこも丁寧に歴史を説明しているので、天草キリシタンについてとても勉強になりました
「天草くずれ」とか「宗門心得違」なんて勉強不足で知りませんでした
なるほど、だから隠れキリシタンとして長く信仰することができたのかって
そもそもこんな厳しい弾圧が行われたのは、豊臣秀吉も江戸幕府も、団結して巨大化した力が脅威だったんでしょうね
「宗門心得違」なんてねぇ、今も昔も政治家って一緒なんだなって(笑)
最後に天草各地の風景写真の展示コーナーを
天草はとても広くて、全然時間が足りませんでした
でもとても素敵なところでした( ^ω^ )